食品サンプル・ラボ ※食べられません

レストランの店先に欠かせない食欲をそそるリアルな食品サンプルは日本独自のものです。
1917年、いわさきグループの創始者である岩崎瀧三氏が、ロウを用いてオムレツの見本を作ったのが発祥だと言われています。現在も食品サンプル業界ではいわさきグループがシェア5割以上を占めており、岩崎氏の出身地「岐阜県郡上八幡」は食品サンプルの生産量日本一で、全国シェアの約60%を占めています。

本物よりもホンモノらしい"食品サンプル"

初期の食品サンプルは実物を寒天で型取りし、ロウを流しこんで成形していたため、熱で変形してしまったり、壊れやすく運びにくいなどの難点がありました。また、こうした一連の作業は手作業で行われ、実際に飲食店で提供される特徴(皿、盛り付け、量など)に近い個々の食品サンプルが作られていました。

そこで登場した画期的な技術革新が、長持ちするシリコンの型と、どんな形にも自由に加工できる塩化ビニル樹脂(塩ビ)の導入です。これにより食品サンプルはますます精巧に、そしてバラエティ豊かになっていったのです。

食品サンプル最大の特徴として言えるのが「瞬間の表現」。代表的なものではみやげ物店などにある饅頭などに切れ込みを入れ、中身が見えるようになっている物や、スパゲッティなどの麺類を箸やフォークで持ち上げて動的表現を加えたようなものを言います。

また、現代において食品サンプルは食品売り場や飲食店の販促ツールとしての役目だけでなく、日本国外からの観光客へのみやげ物、芸術品や玩具として人気を博しています。

食品サンルプの歴史

食品サンプルはその技術の変遷に関して体系的に調査がなされた記録が存在していないため、発祥に関しては、日本で初めて食品模型製作の事業化に成功させ、今日広く普及している食品サンプルの基礎を築いた岩崎瀧三を嚆矢とするもの、食堂として初めて食品サンプルを視覚的効果を持たせたメニューとして陳列させた白木屋の飲食物見本を製作した須藤勉をその始まりとするもの、京都の模型製造者の土田兎四郎、西尾惣次郎が作ったとするもの、などの説がある。彼らは記録上からは因果関係が認められておらず、並列的に発生した事象であると考えられている。

最初の食品サンプル

島津製作所に勤め、学校の理科教育用標本の製作などを手がけていた土田兎四郎、西尾惣次郎らは1917年(大正6年)11月保健食料理模型を製作し、衛生試験所などに納めたという記録が西尾製作所の1968年(昭和43年)のパンフレットに残されており、食材が調理され、盛り付けられた状態の模型の記録としては最も古いものである。土田らは寒天で型を取り、蝋を用いてこうした料理模型を作り上げたが、当時の模型の主流は石膏であり、料理模型の製造には不向きであった。西尾の息子にあたる西尾時一は、野瀬のインタビューに対し、「石膏を使う限りにおいてきれいな料理模型を作ることは不可能で、大正時代に料理模型を作っていた、または作ったことがあるという人はいないはず」と述べている。

白木屋の飲食物見本

1903年(明治36年)10月1日、日本で最も早く百貨店における食堂を設置した白木屋は、1911年(明治44年)10月のエレベーター設置などの大幅な増改築時に本格的な食堂営業を開始した。その後関東大震災を経て1923年(大正12年)11月1日、茅場町に二階建て食堂を作った際に、食堂としては初めて「店頭に提供する飲食物の見本の陳列」および「店頭での食券販売による取引」を実施した。このときの見本陳列において、実物による展示では変色が激しく、なんとかならないだろうかと相談を持ちかけられ、蝋製の食品サンプルを提供したのが、東京日本橋で人体・生物模型技師していた須藤勉であった。須藤はパラフィン、ステアリン、木蝋などを混ぜ合わせ型に入れたものに油絵具で着色して食品サンプルを製作した。

食品サンプル製作の事業化

1932年(昭和7年)6月1日、当時弁当屋を営んでいた岩崎瀧三は大阪市北区老松町に「食品模型岩崎製作所」を創業した。「貸付け」という手法を採用し、食品サンプルを1ヶ月、実物の食品料金の10倍の値段で貸付けることにより顧客開拓に成功、業績を伸ばしていった。食品模型の需要は拡大の一途を辿り、十合デパートが食品サンプルによる提示を始めると他の百貨店からも大量の注文が舞い込むようになった。岩崎は都市部の販売網を確立させるとその販路を東海地方、中国地方などへ広げていき、日本における食品サンプルの定着化を促した。

食品サンプルの未来を切り拓いた男「岩崎瀧三」

今からおよそ70年前。昭和の初めにさしかかった頃、日本中が大ブームになっていたモノ「洋食」。百貨店が世に増え始め、百貨店の花形、「食堂」で一気に日本中で大流行になった。

そのブームを支えたあるものそれこそが「食品サンプル」である。コレまで見たことのない料理をお客さんに簡単に説明するために生まれた、本物そっくりの料理の模型。そんな日本に洋食を広く根付かせるきっかけとなった食品サンプルの未来を切り拓いた男が「岩崎瀧三」である。

第二次世界大戦勃発と材料入手困難

1939年(昭和14年)、第二次世界大戦が勃発すると、食品サンプルの原材料であったパラフィンは軍事利用を目的として統制品目となり、民間企業による入手が困難となった。模型製造業者はパラフィンの配給を受けるため「蝋製模型工芸組合」などを結成し企業の存続を図ったが、1943年(昭和18年)には食品模型の陳列が全面禁止となり、都市部での生産は途絶した。業界最大手であった岩崎は故郷の岐阜県郡上八幡へ戻るとパラフィンを節約して模型を製造する研究に着手し、従来のパラフィン使用量を0.05%まで削減した模型の開発に成功した。これにより極端な物資不足の中で、戦死者の葬儀用供物の模型を販売することで生き残った。戦争が終結すると岩崎は1948年(昭和23年)には大阪に戻り、1953年(昭和28年)には東京進出を果たすなど、その地位を不動のものとしていった。

合成樹脂による食品サンプル

1970年代に入ると合成樹脂による食品サンプルが製造されるようになった。これにより蝋製の食品サンプルが抱えていた熱に弱く、色変わりしやすい点や壊れやすくて運搬しにくい点などが改善され、品質面において大きな躍進を遂げた。

食品サンプルと模型の違い

模型というカテゴリにおいて食品サンプルと、その他の模型ではその意義に大きな違いが見られる。食品サンプルは拡大や縮小の必要性が無く、等倍であることが求められる。また、生物や人体あるいは化石の模型は対象に忠実であることを目指し、本物に限りなく近付けることが求められるのに対して食品サンプルは提供される料理の概要や組合せ、個々のサイズといった情報が求められるため、厳密には似ているだけで良く、「同一のもの」を目指す必要が無い。そのため、時には食欲を増進させるためのデフォルメや、その店の料理の特徴を強調した表現なども用いられる。

また、精密模型に比べて再現度を重要視しない背景には、食品サンプル市場に出来上がっている「相場は実物の10倍」というコストの問題もある。

飲食店での食品サンプルの需要

日本の飲食店において、食品サンプルを陳列する店、しない店が存在するが、通年してメニューの変動が少ない大衆的な店やチェーン店などに食品サンプルがある場合が多く、逆に高級店舗などは、その日の仕入れや客によってメニューを変えるため、サンプルとして掲示しにくいことから置かない場合が多い。また、パン屋や屋台など、実物を掲示している店や目前で調理を行う店などでは食品サンプルの必要性が薄いため、オブジェとしての用途などを除き、無い場合が多い。近年は写真技術の発展に伴い、食品サンプルを設置せずに、視覚効果の役割を写真で代用している店も増加している。

食品サンプルの製造工程

飲食店で提供される料理は同じ料理であっても店によって形状や色、盛り付けが異なるため、食品サンプルは基本的に手作業による製作となる。発注元飲食店の料理の写真や聞き取った仕様に基づいてオーダーメイドで製作される。

製作は型どりによる手法が代表的であるが、食材や料理によって様々な技術が存在する。これらひとつひとつの技術がいつ、誰によって生み出されたかに関する資料は残されておらず、わかっていない。

判明しているものとしては、岩崎が1932年(昭和7年)に確立した紙や綿を用いて裏打ちを行い模型を補強させる手法や、1945年(昭和20年)に生み出した珪藻土にパラフィンを吹き付ける手法、藤田末廣によって1964年(昭和39年)に特許が取得された新しい米の製法、竹内繁春が編み出した宙に浮くスパゲティとフォークなどがある。

特に藤田が河原の小石をヒントに考案した米の作り方は画期的で、当時型取りに手間がかかっていたご飯ものの製作時間の大幅削減につながった。この手法は原材料が合成樹脂となった現在でも用いられており、予め準備された樹脂製の米粒にボンドを加えて混ぜ合わせ、適量を皿に盛り付けることで簡易に表現することが可能となっている。

また、果物や野菜などの生鮮食材を用いるメニューや、副食として添えるような小物食品の場合、多種多様にカッティングされた既製品を組み合わせることで作られることも多く、フェイクスイーツなどとして認知されているデコレーションアートは専らこの手法が取り入れられている。

食品サンプル製造業者の中には、培ったノウハウを活用し、教材や博物館展示用のレプリカ、演劇で使用する特殊小道具の製作に携わっているものもある。